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アクティブ・レンジャー日記 [北海道地区]

北海道地方環境事務所のアクティブ・レンジャーが、活動の様子をお伝えします。

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2021年12月 8日

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2021年12月08日歴史を偲ぶ北海道最初の官営道路 様似山道

丸岡梨紗

今回は9月上旬に様似山道調査をした際の様子をお伝えします。

様似山道はえりも町の「猿留山道」(さるるさんどう)と共に、文化庁の国の史跡と歴史の道百選に指定されています。

史跡とは、「文化財保護法」では,「貝塚,古墳,都城跡,城跡,旧宅,その他の遺跡で,我が国にとって歴史上または学術上価値の高いもの」のうち重要なものとされています。

歴史の道百選とは、古くから人,物,情報の交流の舞台となってきた道や水路等は,我が国の文化や歴史を理解する上で極めて重要な意味を持っているため、これらの歴史的・文化的に重要な由緒を有する古道・交通関係遺跡を,その保存と活用を広く国民に呼び掛け,顕彰するために選定されるものです。

様似山道の由来ですが、千島列島を伝って南下を続けるロシアの脅威に備えるため、江戸幕府は1799(寛政11)年に東蝦夷地を幕府直轄領とし、北方警備と道路開削にのりだし、日高山脈の南端のアポイ岳が海にせり出す交通の難所であった様似町冬島から幌満間の山道開削を、中村小市郎と最上徳内にそれぞれ指導させわずか一年足らずで完成させました。      

昭和2年に山道下の海岸道路が完成すると山道は自然に廃道となりましたが、30年以上前に地元有志によって山道跡が確認され、現在は延長約7km、行程約4時間のフットパスコースとして親しまれています。(看板より掲載) 

 

【幌満側入り口遠景】               【ピンクテープを目印に沢沿いを進む】

コースはその名のとおり山道で、最初は沢沿いを歩きますが、時期が遅いため水量がほとんどありません。

道中は看板のほか、樹木にピンクテープや赤札などがつけられていますので、それを目印に進みます。広葉樹の森は明るくて雰囲気が良いです。

山道を外れ海側にやや戻ると、日高耶馬溪を見おろす場所に出ます。海に浮かぶ岩は近藤重蔵が李白石と呼んだ鵜の鳥岩です。

 

【明るい広葉樹の森】               【耶馬溪が見える絶景ポイント】

様似山道の途中には、縄文時代の遺跡である山中遺跡に、原田宿跡があります。原田宿とは、淡路島から新ひだか町に入植を命ぜられた洲本城主の稲田邦植が新ひだか町開拓の礎を築いていますが、その家臣の原田安太郎が明治6年から同18年まで営んでいた旅館です。発掘調査では、旅館で使用された急須・徳利・鉄鍋や寛永通宝・天保通宝などの江戸時代の古銭も出土しています。

 

【山中遺跡・原田宿跡 看板】           【山中遺跡・原田宿跡】 

沢の徒渉が何カ所か出てきますが、斜面のトラバースなど急な場所にはロープが設置されています。

 

【斜面のトラバース】

冬島のあたりは北海道でも珍しい海成段丘となっており、このかつて海面だったところが隆起して形成された平らで見通しのいい場所は、主に昆布干し場として利用されています。

 

 

【昆布干し場】                 【コトニよりシャマニを望む】

昆布干し場を過ぎるとコトニ小休所の看板が見え、右折すると様似山道につながります。ここから国道に出ることもできます。

コトニ小休所で、往来の人達は焚火をして暖をとったり、時には仮眠もしたといいます。山道東口(幌満)から来た人は、鬱蒼とした山中を熊や鹿に脅かされながら通ってきて、シャマニ(様似)を望むここでようやく安心し、山道西口(冬島)から来た人は、シャマニもここで見納めかと嘆いたといわれるなど、コトニは悲喜こもごもが多く残された場所だったようです。なお、このすぐ西の東冬島トンネルのあたりは、アイヌ語で「テレケ(跳ねる)ウシ(いつでも)」といい、山道下最大の難所でした。(看板より掲載) 

コトニの由来は、様似町史ではアイヌ語で「コトネ(低い)イ(ところ)」と分解し、「低いところの意」としていますが、幕末の探検家・松浦武四郎は「東蝦夷日誌」で「昔、コトといふ胡女ここにて死せしが、その墓より、木芽萌出でしをもって名付けし」と記しています。(看板より掲載) 
 最後に川沿いを下り国道へ出て終点の冬島に到着です。

    

【砂防ダムを越え沢沿いに降りる】        【冬島からの入り口は左岸側】

 私は、熊野古道の伊勢路・大峰奥掛道・中辺路の踏破と国東半島ロングトレイルをほぼ踏破しており、歴史のある古道が好きなので、北海道最初の官営道路であり、幕末の探検家である松浦武四郎も通った歴史ある道を歩けて感激でした。

・松浦武四郎について

三重県出身で、16歳の江戸への一人旅をきっかけに、諸国をめぐり、名所旧跡を訪ね、日本の百名山にも登ります。28歳には当時まだ人々にあまり知られていない蝦夷地(現在の北海道)へ向かい、約13年間に計6回の調査を行いました。
 武四郎は訪れた土地の地名、地形、行程、距離、歴史を調べ、人口、風俗、言い伝えを聞き取りなど、さまざまな調査を行い野帳(フィールドワークのメモ帳)に土地の風土や文化を記録しました。

この記録から多くの出版物を作成しましたが、この時代の本は、版木と呼ばれ木に文字を彫り紙に刷りあげる方法で、手間も費用も多くかかるものでしたが、武四郎は世の人々に蝦夷地のことを知らせるため出版を行いました。

多くの著作は、地図製作の基本資料となり、非常に多くの地名を収録していることから、アイヌ語地名研究の基本文献ともなっています。武四郎の記した東蝦夷日誌には当時の十勝や日高地方のことが多く記されており大変興味深いです。
 

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