上川

小函小史②

2023年12月27日
上川 村岡龍岳
前回に引き続き、大函・小函の地名の由来について調べました。
 
前回の記事では、「函・箱」という字から推察し、大函・小函の地名の由来はアイヌ語由来ではないのではないかと書きました。
しかし、アイヌ語地名を調べてみると、大函はスウォプニセイ(Suwopnisey)/シュポプネニセイ(Suppopnenisey)と呼ばれていたようです。
Suwop(旭川方言でSuppop)は函を意味し、niseyは峡谷を意味します。
「峡谷の函」といった感じでしょうか。
既にアイヌ語の地名に「函」という意味が包含されていたようです。
 
依然として誰が「大函・小函」と名づけたのかは不明ですが、その理由のヒントとなる記述を見つけました。
小泉秀雄による「北海道中央高地の地學的研究」です。
この論文は雑誌『山岳』大正6年第2・3号に掲載されました。
小泉は層雲峡から大函へと歩いたときのことを次のように記録しています。
 
…遡ること一里、兩岸の絶壁相迫り來りて箱狀をなし、中央を石狩の淸流深淵をなして通過するを見る、小箱の峽と稱す。凡て流紋岩の柱狀節理は恰も屏風を建てたるが如し、進むこと半里にして小箱と同型にして且つ大なる絶壁よりなる大箱の峽となる、斷崖絶壁高さ數十丈、兩岸迫り來つて僅かに河道を通ぜり、本峡谷中最も險難を極むる所なり。道は之より左方の山に登りて大箱の上流に下る、峡谷は此所にて其の終りを告ぐるものゝ如し。[1]
 
(現代語抄訳)
遡ること一里(約4km)、小函という、両岸の絶壁が箱状をなしており、中央を石狩川の清流が流れる所に来た。流紋岩の柱状節理はまるで屏風のようで、そこから半里(約2km)進むと大函という場所に着く。そこの断崖絶壁は高さ数十丈(60m以上)で、両岸の幅は狭くなりわずかに川が流れている、本峡谷で最も険しいところである。左側の山に登って降りると大函の上流にたどり着き、そこで峡谷は終わる。
 
小泉の記述を見ると、現在の通り、下流側から小函→大函となっていることが分ります。
しかし、小泉による大函の記述を読む限りでは、現在の小函を示しているのではないかと思えてきます。
現在の大函は峡谷の終点にあり、高さは60mもありません。また峡谷中で最も険しい所が現在の小函から神削壁付近であることは、論をまたないのではないでしょうか。
小泉による小函の記述を読む限りでは場所の特定は難しそうですが、銀河・流星の滝と現在の小函間の地点のように読み取れます。現在の天城岩付近でしょうか。
 
[1] 小泉(1917),p.140
【天城岩】
また、大町桂月は1921年に「層雲峽より大雪山へ」と題した紀行文を執筆しています。
大町は、層雲峡から小函へと歩いた時のことを次のように記録しています。
 
…大凾とて、左右の石柱の絶壁、相距ること、ほゝ゛一町ばかりとなれる處に至り、釣り得たる『やまべ』を下物として、上戸は飲み、下戸は食す。
二人の人夫は望むがまゝに待たして置きて、なほ釣らしめ、進んで小凾といふ處に至る。さても造化は變化を極めたるもの哉。石狩川も小凾に至りては、幅僅に十間、兩崖の高さは三四丈に減ぜるが、依然として石柱の連續也。石理殊に明瞭也。水は音なくして、緩かに流る。徒渉して左岸に移り、石柱の下をつたふ。いよ〱鬼神の樓閣の室に入りたる也。右崖一缼したる處に、飛泉懸りて仙樂を奏し、一峡呼應す。世に材木巌の奇少なしとせざれども、天上に樓閣を作り、谷底に幽室を造ることは層雲峡の外に求むべからず。大箱の長さは二十町、小箱の長さは十町小箱の盡くる処、一大淵を成す。[2]
 
(現代語抄訳)
大函まで来て、左右の石柱の絶壁、相対すること、ほんの一町(約110m)ほどとなる場所に至り、釣り上げた「やまべ」を下物として、上戸は飲み、下戸は食す。
二人の男たちは望むままに待たせておいて、まだ釣らせ、進んで小函と呼ばれる場所に至る。さても造化は変化を極めたものだ。石狩川も小函に至っては、幅狭く十間(約18m)、両崖の高さは三四丈(約9~12m)に減るが、依然として石柱は連続している。柱状節理は特に明瞭だ。水は音なくして、緩やかに流れる。渡って左岸に移り、石柱の下をつたっていく。いよいよ鬼神の楼閣の室に入った。右の崖一帯に、飛泉がかかって仙楽を奏し、一峡が呼応する。世に材木岩の奇は少ないとされるが、天上に楼閣を作り、谷底に幽室を造ることは層雲峡の外には求められない。大箱の長さは二十町(約2.2km)、小箱の長さは十町(約1.1km)。小箱の尽きる所で一大淵を成している。
 
大町の記述によると、層雲峡から石狩川上流に向けて歩いたようですが、先に大函に着いた記録となっており、現在と逆になっていることが分ります。
小函の幅、高さなどの記述は、現在の大函を指しているように思います。
また、大町の記述に照らし合わせれば、大函の長さは2km、小函の長さは1kmとなっています。
それぞれどこからどこまでを示しているのかは不明ですが、現在よりも広い範囲を示しているのでしょうか。
「天城岩」や「神削壁」などの地名は散見されないことから、当時は現在の小函付近にある大規模な柱状節理一帯を「大函」と呼んでいたのかもしれません。
 
 
[2] 大町(1921),pp.56-57
【神削壁】
また、大町桂月は「小函峡」という七言絶句の漢詩を同時期に書いています。
小函について詠まれたその漢詩は、以下のように記述されています。
 
小函峡
二渓合處作深淵 石柱相連夾一川
奇境眞成神殿閣 奏來仙樂有飛泉[3]
 
(書き下し文)
二渓合する(ところ)深淵を作り 石柱相連なり一川を(はさ)
奇境眞に成す神殿閣     仙楽を奏し来たりて飛泉有り
 
起句を見ると、「二渓合する處深淵を作り」とあり、小函を「二つの渓流が合流し、深淵を作る所」と表現していることが分ります。
この二つの渓流とは、ニセイチャロマプ川と石狩川本流が合流する、現在の大函付近のことを指しているのではないでしょうか。
大町は現在の大函と小函を逆の位置として記録していたようです。
 
小泉秀雄と大町桂月の記録を参照しましたが、両者とも現在の小函付近を大函として記録しているようです。
小函の位置については両者の記述に食い違いがありますが、個人的には大町の記述に得心がいきます。
長い年月を経て現在の地名となったようですが、再び名称が変わる日は来るのでしょうか。
 
小函は落石の危険があるため、現在立ち入りが禁止されていますが、大函は現在でも見ることができます。
冬には大函周辺で層雲峡ビジターセンター主催の観察会も企画されています。是非足を運ばれてみてはいかがでしょうか。
大雪山国立公園 層雲峡ビジターセンター - ビジター講座案内 (sounkyovc.net)
 
【参考文献】
小泉秀雄(1917),「北海道中央高地の地學的研究」;『山岳 第拾貳年第二・三號』,日本山岳會事務所
大町桂月(1921),「層雲峽より大雪山へ」;河野常吉編(1926)『大雪山及石狩川上流探検開發史』,大雪山調査會
層雲峡観光協会編(1965),『大雪山のあゆみ』,層雲峡観光協会
清水敏一(1987),『大雪山文献書誌 第1巻』,私家版
清水敏一(2004),『大雪山の父 小泉秀雄』,北海道出版企画センター
近藤信行編(2003),『山の旅 大正・昭和編』,岩波書店
佐久間弘(2022),『層雲峡のアイヌ語地名』,層雲峡ビジターセンター
 
 
[3] Ibid,pp.46-47(当該の詩が掲載されている項は項数が振られていない)