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北海道地方環境事務所

アクティブ・レンジャー日記 [北海道地区]

遠つひと(とほつひと)

2008年10月17日
稚内
 秋が深まるにつれ、青々としていたサロベツ原野は黄金色へとその姿を変えていき、冬の訪れが近いことが感じられます。北から旅をしてきたヒシクイたちが今年もパンケ沼、ペンケ沼周辺の牧草地にやってきたと聞き、パークボランティアさんに案内していただき、様子を見に行きました。ヒシクイはガン類に属する鳥でカモより大きく、ハクチョウより小さい水鳥です。私はヒシクイを見るのは初めて。「グワン、グワン」と盛んに鳴き交わしているヒシクイの大群には圧倒されるものがありました。サロベツ原野はこのヒシクイたちの南への渡りの中継地であることから2005年11月に「水鳥の生息地として国際的に重要な湿地」としてラムサール条約湿地に登録されました。

 彼らについてほとんど何も知らなかったので調べてみたところ、遠くユーラシア大陸北部で繁殖し、越冬のために渡ってきたということ、サロベツを訪れるヒシクイ(Anser fabalis)にはヒシクイ(Anser fabalis serrirostris)とオオヒシクイ(Anser fabalis middendorffii)という亜種があること、国の天然記念物に指定されていること、また、ヒシクイ以外にもサロベツ原野にはマガン、サカツラガン、カリガネ、シジュウカラガンといった雁たちも訪れるということを知りました。

 ヒシクイなど雁の仲間のことを聞くと私は小学生のころに親しんだ児童文学者である椋鳩十の作品「大造爺さんと雁」を思い出します。国語の教科書に載せられていたお話なのでご存じの方も多いかもしれません。老練な猟師、大造爺さんと残雪と名付けられた雁の群れのリーダーの物語です。大造爺さんと残雪の間には狩るものと狩られるものの戦いが繰り広げられます。市立図書館で久しぶりに読み返してみたところ、物語の舞台は九州地方の内陸の沼地で、そこまで渡ってくる可能性がある雁はヒシクイかマガンが考えられると解説に書いてありました。主人公、残雪は渡りの途中でサロベツ原野に立ち寄っていたかもしれません。物語にあるように、雁は一昔前まで狩猟の対象でした。確かに目の前にいるヒシクイたちはまるまる太って美味しそうです。サロベツに降りたったヒシクイは残雪のように警戒心が強く私たちが近づくとその分遠ざかり、一定の距離を保っていましたが、さらに近づこうとすると力強い音をたてて一斉に飛び立ちました! しかし、物語には誤りもあるようです。それは、雁を罠にかけるためにタニシを使っているところです。ヒシクイがヒシの実を好んで食することで知られているように、雁の仲間は植物質のものを食べるため、この部分だけちょっとおかしいです。


原野のオオヒシクイ

ところで、雁たちを始めとして鳥たちはなぜ渡りをするのでしょうか?
「渡り」という行動自体に私は疑問がありました。そもそも危険を冒して渡りをするくらいだったら、どうして夏の間もずっと越冬地に棲まないのでしょうか?越冬地は繁殖地より南にあり、暖かいし、餌も豊富に感じられます。春にわざわざ北に帰って行く必要もないような・・・。

生態学的には、鳥たちが「渡り」をするか否かは、渡りをすることで得られる「利益」と渡りに伴う「コスト」のバランスで決まると考えられているようです。しかし、利益の量、コストの量を何をもって正確に換算するのがよいかは分からないため、これは未だに理論にとどまってるそうです。しかし、簡単に考えてみることもできます。たとえば、利益を餌の量とし、コストを渡りに関する労力や危険性とします。もし、渡った場所で得られる餌が留まった場
所で得られる餌よりも多い上に、それが渡りをする危険や労力分を補ってもなお上回る量ならば、渡りをした方が得であるということですから、鳥たちは渡りをします。しかし、留まった場所で得られる餌の量の方が大きい場合、或いは、渡った場所での利益が大きくても渡りをする危険や労力の方がこれよりさらに大きかったりすると渡りをするのは危険な目に遭うだけで損ということになってしまいます。

 実際に、どんな利益を目的に渡りをしているのか?というと様々なものがあるでしょうが、重要なもののひとつはやはり餌であるようです。冬を越えた鳥たちには次に繁殖と子育てという大切な仕事が待っています。その仕事を行うためには十分な栄養を得られる場所が必要です。 春から夏にかけて北方には多くの虫が発生、植物資源も豊富に出現します。北方に渡った方が餌を食べつ
くした大入り満員の越冬地に残っているよりも個体あたり多くの餌を確保することができます。そして冬になり繁殖地が雪に閉ざされて餌が手に入らなくなると再び南へ移動するのです。

遠い昔から雁たちの間で何世代にも渡って繰り返されてきた「渡り」の営み。そこには私が考える以上に意味深い未知の部分が秘められていました。

 雁は日本人の心情や季節感とも深い関わりを持っています。短歌の中で、雁には「遠つ人」という枕詞があるそうです。雁を「遠く旅する人」に喩えています。秋になると鳴き交わしながらやってくる彼らに、人々は昔からひとりぼっちの寂しさや遠く離れて会えない人への想いを乗せたのでしょう。海原を越えて旅する国境なき雁たち。彼らと彼らが疲れた翼を癒すサロベツ原野を大切にしていくことは私たちの心の風景を守ることにも繋がるのかもしれません。