アクティブ・レンジャー日記 [北海道地区]
「歴史ありけり、そして未来がある」
2020年03月31日みなさん、こんにちは。上川自然保護官事務所の岩城です。
新型コロナウィルスの影響は日々深刻な度を増していますね。。。
いつまで続くか分からない現状が、気持ちをナイーブにしてしまいますが、
終息後は「何をしよう」、「どこに旅行へ行こう」など遊ぶ計画を立てながら週末を過ごし気を紛らわせているこの頃です。
いつ終息するかは分かりませんが、みなさんもまずは遊びに行く計画を立ててみてはいかがでしょうか。
そこで今回は、今後の旅行の計画の参考にしていただくため、層雲峡の歴史から温泉が開拓された当時のお湯の成分までをご紹介したいと思います。
上川町から層雲峡方面 ※層雲峡は見えませんが真ん中奥が層雲峡方面
さて、上川町史を調べると層雲峡で温泉が発見されたのは安政4年(1854年)。石狩在勤の足軽松田市太郎によって「大川端に温泉数カ所有之」と記述されています。
その後、約半世紀の間、層雲峡の記述はほとんど無く再び上川町史に登場するのは、明治30年代に入ってから。もちろんその頃はまだ層雲峡とは命名されていません。
明治33年(1900年)には温泉開発が始まり、大正4年(1915年)頃には層雲峡温泉は様々な温泉名でと呼ばれるようになりました。
有名なところでは塩谷温泉、国沢温泉など、ほとんどは事業者の名字を取った温泉名だったようです。
また、興味深いことに明治33年当時の温泉(現層雲峡温泉)の温泉成分が上川町史には記載されていましたので紹介します。
鉱泉証明書には
・有機物 少量
・安母尼亜(アンモニア)痕跡
・亜硝酸 無シ
・格魯兒 (塩素) 少量
・炭酸 多量
・硫酸 少量
・硫化水素 無シ
・石灰 少量
・苦土(マグネシウム) 無シ
・加留謨(カリウム) 痕跡
・那篤倫(ナトリウム)痕跡
・亜酸化鉄 痕跡
いまから120年前の温泉成分。和名からも歴史を感じさせますね。
明治44年(1911年)頃には愛別村長太田龍太郎氏が塩谷温泉を訪れ「霊山碧水」と命名。
大正10年(1921年)には、大町桂月が黒岳から大雪山を縦走する際に霊山碧水を訪れ、そのときに「層雲峡」と命名。
大雪山を縦走したときの紀行文「層雲峡より大雪山」にはかの有名な「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って、山岳の大さ(おおい)を語れ。」との名文があります。紀行文は雑誌「中央公論」に掲載され、層雲峡は景勝地として全国的に有名になりました。
昭和に入ってからは、黒岳ロープウェイが開業し夏は登山、冬はスキーを楽しめる山岳観光の拠点となり、平成には「上川・層雲峡圏プラン65基本構想」により、建物の色彩、デザインの統一などを生かした街並みが整備されました。
長い時間をかけて層雲峡はいまの姿、形へと進化してきました。
現在の層雲峡温泉 (右奥に見えるのは黒岳)
層雲峡と命名されてから今年で99年。来年には命名100周年を迎えます。
いまは、新型コロナウィルスの影響で国内の観光地は非常に厳しい状況となっています。
ウイルスが終息するまでは、前には進めませんが、準備をすることはできます。
2021年は層雲峡に取って大切な年。
大雪山国立公園のためにも層雲峡地区の活性は重要だと思っています。
今後、復活の日に向けて様々なアイディアを絞り出し多くの観光客が戻っている層雲峡に少しでも協力できればと思っています。
99年前の層雲峡。そしていまの層雲峡。そして未来の層雲峡のために。
今回の日記はここまで。
また次回をお楽しみに。。。