アクティブ・レンジャー日記 [北海道地区]
江戸幕府の公金で開削された蝦夷地最初の山道「猿留山道」を歩いてきました
2023年10月26日
帯広自然保護官事務所
猿留山道は、えりも町字本町(旧:ホロイズミ)から海岸をとおり、コロップが山道入口、そこから現在の国道の峠、追分峠を登り、日高山脈の南端、と豊似岳の山腹をなだらかに登り下りしながら北上すると、豊似湖を見下ろす沼見峠に達する。そこから、稜線を伝い、カルシコタンへ下がる。猿留川を越え、下ると字目黒(旧サルル)に到着する七里半の山道で約27kmにものぼります。
現在、国道、町道、林道などにその多くは姿を変えていますが、1996年に一部が残っているのが確認され、一部の区間が復元され、2003年この山道を、ボランティアの手で復元し、整備する「猿留山道復元ボランティア事業」が始まり、国史跡に指定されています。
2012年、10年間の実施により、残存する区間が歩きやすくなり、2013年からは、より多くの方に参加していただけるよう「猿留山道を歩く会」として開催されています。
今年度は10月14日に開催され、歴史ある山道がどのように管理、保存されているかを実体験するために参加してきました。
現在、国道、町道、林道などにその多くは姿を変えていますが、1996年に一部が残っているのが確認され、一部の区間が復元され、2003年この山道を、ボランティアの手で復元し、整備する「猿留山道復元ボランティア事業」が始まり、国史跡に指定されています。
2012年、10年間の実施により、残存する区間が歩きやすくなり、2013年からは、より多くの方に参加していただけるよう「猿留山道を歩く会」として開催されています。
今年度は10月14日に開催され、歴史ある山道がどのように管理、保存されているかを実体験するために参加してきました。
歴史的背景として
猿留山道(さるる・さんどう)は、寛政十一年(西暦1799年)に江戸幕府の公金で開削された蝦夷地最初の山道(当時の全長は約30キロメートル)の一つです。
北海道が蝦夷地と呼ばれていた頃、ロシア等の外国船がラッコの毛皮・クジラの脂、食料や水などの交易を求めて南下政策を進めており、江戸幕府は、蝦夷地周辺の北方警備を強化する必要がありました。当時、蝦夷地の交通手段は、その多くを北前船に頼り、それは、風まかせのものであり、情報伝達や移動手段としては、頼りなかったため幕府は、急務を確実に伝えるため陸路を整備しました。その一つが猿留山道なのです。北海道の測量で歩いた伊能忠敬や北海道の名づけ親松浦武四郎が探検に使用した道でもあります。
猿留山道(さるる・さんどう)は、寛政十一年(西暦1799年)に江戸幕府の公金で開削された蝦夷地最初の山道(当時の全長は約30キロメートル)の一つです。
北海道が蝦夷地と呼ばれていた頃、ロシア等の外国船がラッコの毛皮・クジラの脂、食料や水などの交易を求めて南下政策を進めており、江戸幕府は、蝦夷地周辺の北方警備を強化する必要がありました。当時、蝦夷地の交通手段は、その多くを北前船に頼り、それは、風まかせのものであり、情報伝達や移動手段としては、頼りなかったため幕府は、急務を確実に伝えるため陸路を整備しました。その一つが猿留山道なのです。北海道の測量で歩いた伊能忠敬や北海道の名づけ親松浦武四郎が探検に使用した道でもあります。
今回は、ガロウ川起点から1km上った猿留山道の合流点まで林道2.2km歩き、そこから猿留川の猿留山道東口まで約8kmを歩きました。
山道は綺麗に整備され、当時の道幅6尺を維持するかの如く2m弱の幅で笹刈りがされていました。
沼見峠(標高488m)には妙見菩薩(1859年)や馬頭歓世音菩薩(1861年)が祭られており、約1時間の休憩があったため、単独で観音岳ルートを300mほど上り、踏み跡がなくなったところで引き返してきました。また反対の峰(標高=推定545m)に上ると見晴らしがよくなりハート形で有名な豊似湖の一部が見えました。
山道は綺麗に整備され、当時の道幅6尺を維持するかの如く2m弱の幅で笹刈りがされていました。
沼見峠(標高488m)には妙見菩薩(1859年)や馬頭歓世音菩薩(1861年)が祭られており、約1時間の休憩があったため、単独で観音岳ルートを300mほど上り、踏み跡がなくなったところで引き返してきました。また反対の峰(標高=推定545m)に上ると見晴らしがよくなりハート形で有名な豊似湖の一部が見えました。
沼見峠からは下る一方で、途中豊似湖に通じる登山道の分岐を過ぎ、猿留川の東口につきました。
豊似湖(過去の写真)