アクティブ・レンジャー日記 [北海道地区]
江戸幕府の公金で開削された蝦夷地最初の山道の一つ「様似山道」をご紹介します
2024年07月10日
帯広自然保護官事務所
令和6年6月25日に誕生した日高山脈襟裳十勝国立公園にも含まれる、様似山道についてご紹介したいと思います。
昨年はえりも町の「猿留山道」を地元の方々と歩きましたが、今回私達は日高山脈に関係するもう一つの山道「様似山道」を歩道調査のために天候は雨でしたが、全行程を歩いてきました。加えて車の駐車の関係から冬島地区から歩きだしコトニ小休所跡までの整備された道路1,4kmを歩きました。
昨年はえりも町の「猿留山道」を地元の方々と歩きましたが、今回私達は日高山脈に関係するもう一つの山道「様似山道」を歩道調査のために天候は雨でしたが、全行程を歩いてきました。加えて車の駐車の関係から冬島地区から歩きだしコトニ小休所跡までの整備された道路1,4kmを歩きました。
様似山道は様似町冬島~幌満間の日高耶馬渓と称される断崖の海岸を避けるため,山間に築かれた約8kmの山道です。礼文華山道,猿留山道などとともに,江戸幕府時代に箱館から千島方面へ通じる陸路として幕府の命により1799(寛政11)年、整備された山道の一つです。2018年猿留山道とともに北海道ではじめて「道」として国の史跡に指定されました
コトニ地区には様似山道の西口があり登山届けのボックスもあります。
非常に整備された山道を歩いて行くと山中地区あたりから深い森へと変貌し、心許ない踏み跡を辿りながら歩きます。7回ほどの徒渉や綴り折りのジグを登る急勾配などがいくつもあり、登山に匹敵するほどの山道であることを実感しました。それでも全体的には明瞭な山道跡と史跡(原田宿跡)等があり古き時代を彷彿する風景を楽しみながら歩くことができました。
非常に整備された山道を歩いて行くと山中地区あたりから深い森へと変貌し、心許ない踏み跡を辿りながら歩きます。7回ほどの徒渉や綴り折りのジグを登る急勾配などがいくつもあり、登山に匹敵するほどの山道であることを実感しました。それでも全体的には明瞭な山道跡と史跡(原田宿跡)等があり古き時代を彷彿する風景を楽しみながら歩くことができました。
歴史的背景として
北海道が蝦夷地と呼ばれ、アイヌ民族が暮らす大地だった頃、シベリアから東へ領土拡大を続けていたロシアが、毛皮にするラッコを求めて千島列島沿いに南下する動きが目立ってきます。1792(寛政4)年にはロシアのラクスマンが対日修好通商を求めて根室に来航したり、1796~97(寛政8~9)年には英船プロビデンス号のブロートンらが内浦湾に停泊して上陸する動きもあり,そうしたことから幕府は1798(寛政10)年 蝦夷地周辺の北方警備を強化のため蝦夷地の大規模な調査に着手します。
当時、蝦夷地の交通手段は、その多くを北前船に頼り、それは、好天や風まかせのものであり、情報伝達や移動手段としては、海路だけでは頼りなかったため幕府は、急務を確実に伝えるため陸路を整備しました。その一つが様似山道なのです。
北海道が蝦夷地と呼ばれ、アイヌ民族が暮らす大地だった頃、シベリアから東へ領土拡大を続けていたロシアが、毛皮にするラッコを求めて千島列島沿いに南下する動きが目立ってきます。1792(寛政4)年にはロシアのラクスマンが対日修好通商を求めて根室に来航したり、1796~97(寛政8~9)年には英船プロビデンス号のブロートンらが内浦湾に停泊して上陸する動きもあり,そうしたことから幕府は1798(寛政10)年 蝦夷地周辺の北方警備を強化のため蝦夷地の大規模な調査に着手します。
当時、蝦夷地の交通手段は、その多くを北前船に頼り、それは、好天や風まかせのものであり、情報伝達や移動手段としては、海路だけでは頼りなかったため幕府は、急務を確実に伝えるため陸路を整備しました。その一つが様似山道なのです。
日高山脈襟裳十勝国立公園は、原生性が高いゆえ国立公園内で気軽に散策できる箇所が少ない中、様似山道の周辺には高山植物の好きな方や初級者でも楽しめるアポイ岳もあり、登山と共に、様似山道を歩きながら、北海道の歴史と先人の苦労に振れながら自然の森の散策を楽しむのも良いかと思います。